
今「人はなぜ美しいがわかるのか」を読んでいる。 こちらは2002年に出版、その後 2023年11月には第15刷も発行されている。 まさに大ロングセラーですね(^▽^)/
7月はじめにもこの本について少し書いていたので載せてみました。↓
youtomejiteki1000sai.hatenadiary.com
ちなみに題名の「人はなぜ美しいがわかるのか」(橋本治著)について。ふつうに「個々の生い立ちや感受性によるのでは?」と一言で片付けてしまいそうになるが、粘着質(失礼!哲学気質)の彼からしたらそんな考えは手ぬるい。そもそも「美しい」というのと「わかる」というのは別物、と言われてハッとする。
なぜなら「美しい」というのは人の感受性などにより違う。 また「わかる」というのは「世の中には分かる人と分からない人がいる」という説明からしないといけないからだ。 この分析はすごいなあ。ありふれた言葉を、鵜呑みにせずちゃんと分析している。
今回は順を追って、
「美しい」と、
「そう美しくないかもしれない」、
そして類義語の
「かっこいい」
という3つの観点から「美しい」について考えていく。
細かくいうと、今回の本の前半には、「美しい」というのは「合理的」であるか?という命題がある。たとえば美しい対象自体が調和がとれてたり、スポーツ選手などが美しいフォームで走ってたりすると美しい。しかし、必ずしも美しいは、合理的ではない。美しい=合理的(自分にとって無駄がない、効果的だ)かどうかが成り立つかどうかを軸に考えていく。
1.圧倒的な美、手の届かない天上の美に出会ったとき
この場合、
美しい=合理的 は成り立つのか?こちらは 崇める感じなので、近くに行くのをはばかれ、 気軽には近寄れない。 すなわち自分と対象を離している。
そのため、美しい≠合理的となり、成り立たない。
合理的とは「自分の欲望にあっているか否か」ということだからだ。
2.「美しい」から「一度お相手してほしい!」というのは正しいの?ほんとうに「美しい」のが理由なの?
この場合、自分の欲望は丸出しになって、自分とその美しいと思われる対象は近しい。しかし、 自分の欲望と合致してるという意味では合理的であるが、その対象が美しいとは限らない。
(ちなみにこの「お相手願いたい!」「俺のものにする!!」という欲望に対しては、たいてい「自制」」というブレーキが効くが、まれにブレーキが効かない人もいる。 。そこの議論は今回はわきに置いておく感じです。)
本人は「美しいひとがきたからお相手願いたい」
とか理由付けしてるひとがいるが、じつはそれは正しくない。
これは自分の欲望にだけは忠実であって(合理的) 、その対象が綺麗とか美しいとかは関係ない。
この場合、「(自分にとって)いい女(都合のいい男、都合のいい女)だからお相手願いたい!」というほうが、その人の心により沿っている、と言える。
つまりハタから見て、その対象が美しいとか綺麗とかでなくても「これはイケる!いってしまえ!」という感情(勝手な欲望まみれ)でぶつかっていくだけだから、
美しくないかもしれないが、合理的となる。
よって
美しい≠合理的となり、成り立たない。
3.「かっこいい」というのはなにか。
「うちらにとっての美」
こちらは、すなわち「格好がいい」ということ。 彼は「桃尻語訳 枕草子」を略した時に「うるわし」という言葉を「かっこいい」と訳した。 (藤原道長とか、季節ごとに着替える、高貴な男子が着る服とかについて)
これはもろ自分の主観である。 しかし、「かっこいい」という枠でその人を好きになったり夢中になる人はかなり多い。
そしてこの対象は、「まるで生きてる仏像みたい」になってしまって称えたられたり触られたり写真撮られたりして。 (いわゆる「会いに行けるアイドル」、「銭湯で握手できるアイドル」とかいうやつか)
つまり、自分に近い自分の欲望の対象として見ている。
この場合、(かっこいい)美しい=合理的
というのがはじめて成り立っている。
以上の点から
美しいものが分かるひとの行動とはどういうものかがわかる。
美しいものを大事にしている人は、例えば綺麗な花を見た時にすぐに潰したりはしない。
そうっと花を摘んだり、よく見て愛でたりする。
つまり美を尊重する。
そして美を尊重する心を持つ人は、人を尊重する。 すなわち、相手を尊重することにつながるのだ。
【考察】
上記の1.について橋本治はこのように表現している。
本当の「美しい」に出会ったとき(出くわしたとき)には、
まず、人は「あ・・・」とか「おっ」という感嘆詞とかため息などしかでてこない。
自分のその感情に戸惑う。
なんと表現したらいいかわからない。
著者は「ひとが美に魅入られたときには」、
「とにかく、目の前のものにとりこまれてしまう」ので「とりあえず、そのわけのわからないものを取り込んでしまう」と書いてある。
しかし、そのもやもやは一体なんなのか、この深い驚嘆がなんなのか、
ずいぶん心の中にとめおいて
やっとのことで
それが美なのか、
と分かる。
しかし、このもやもやの感情を「めんどうくさい」とすっ飛ばしてしまい、自分の雑な欲望とか論理と合致させる、ということをしているひとは短絡的な単純なひととなり、
「美というものがわからない」となる。
たしかに、小さいころに雨上がりの虹や夕焼けををみて「うわ~~、見たことない!!なんだかわかんないけどすごいなあ」と思ったり、3月の節句に見事なおひなさまに出会い、その造形をまじまじとみたり、生まれてはじめてバレエを観てその美しさに吸い込まれそうになったり、、、
こんな言葉にならない経験が「美しいがわかる」の原点のようだ。
その後や後日、
周りの大人が「まあ、きれいね」とか「美しいねえ」「素敵だ!」という言葉を発することで、幼い子は「おおー、これが『きれいなもの』というものなのか!」と自分の感動に名前がつくのかもしれない。
でも、もしこどもがそのよくわからないことに心を奪われていたら、
いま、子育て真っ最中のわたしなら、「いっしょにその時間を共有するだけにしよう」とだけ思う。(著者もそう言っている)
早くに「まあ、素敵」「きれいだねえ」などという言葉を覚える前に、それ以上のものをこどもたちに感じほしいから。
(子育て時期には、そんなふうに思わずにせかせか言葉を教えようとしてたなあ。今考えるとああ、もったいない)
こんな面倒くさいことの心の動きなどを再現して
「美しいがわかるのか?」をていねいに分析している橋本治にはまさに驚愕する。
そして、かなり辛辣である。
わたしたちはよくわからないものにあったとき、言葉にならない。
その感覚を大事にしたい。
上記の2.および
3.について
我々は騙されてはならないだろう。
「好き過ぎる」からの「すぐ付き合って!」はただの性的な欲望だし、
私なら「会いに行けるアイドルBY秋元康」みたいなのから、デビューのお誘いがあっても(??)だんっぜんお断りしますね!!
ファンの合理的な欲望にさらされてしまうからだ。
ファンありきのアイドル、という手法は新しかったが若い子たちにとっては危険すぎると思う。
ほんとは、1980年代みたいのキョンキョンや松田聖子みたいに
ピンデビューさせて
神秘的な存在にさせるのが、
アイドル志望の子にとって、
いちばん安全だったのかもしれない。
p.s.
よく考えると、米津玄師も最初は顔出ししなかったし、Ado やヨルシカも素顔を明かしてない。これはアーティストを秘密のベールでおおうことでプライベートとアーティスト活動は切り離し、アーティストが「人間らしくいきていく」ためのひとつの手法かもしれませんね。
終
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