
うちにあった年季の入った文庫本「異邦人」。
値段が200円とは破格の値段!!(40年前だからね)
夫が昔買ったけど、読んでなかったらしく中身はきれいでした。
さて、昨日は25度まで気温が上がりました!!なんと3月に、夏日になるのは150年ぶりだという。異常気象にもほどがありますね。。先週は雪が降ったというのに。(´;ω;`)
だから、この本を手に取ったのかと言えばそうでもあるし、そうでもない。(どっちだい!!)
この本の著者アルベルト・カミュは、フランスの当時の植民地アルジェリアで生まれたそうです。
親が祖母を頼って、フランスからアルジェリアから移民してきたそうで、彼と「焼き付けるような夏の日差し」は切ってもきれない縁がある。
冒頭の「今日、ママンが死んだ。もしかしたら昨日かもしれないが私にはわからない」とあります。
この出だしはとても有名で、わたしもそこまでは知ってますが以前この本を読もうとして挫折してました。なんというか、主人公の行動に共感できなくて、、。
この本では、養老院にはいっている60歳そこそこのお母さんが亡くなった、という通知がきたところから物語は始まります。(昭和15年くらいはこのぐらいが寿命だったのかでしょうね)その翌日に、主人公ムルソーは海水浴に行き、知り合いの女性と一晩を過ごし、喜劇映画も見る。その後しばらくしてからの殺人、、
彼はその理由として「太陽のせい」といいますが、なんとも不条理な、刹那的な主人公の小説なのだと思っていました。
しかし、よく読むとなんだか全然違っていました。
太陽がぎらぎらした灼熱の海のそばの友人の家で過ごすムルソーとその友人。彼は、友人レエモンの敵のアラビア人にあう。彼らは一度後ずさるが、ムルソーが散歩しているとその中の一人とまたであってしまう。
そのとき、ムルソーは太陽のギラ付きでこめかみ部分に血管がすべてあつまって頭が痛くなってしまう、、、(もしかしたら、熱中症でちょっと気が変になっていたかも?)
自分が回れ右をしさえすれば、、、
バカげていることと分かっていても、
ムルソーは殺人を犯してしまう。
しかし、今数十年ぶりに読み返してみると、これがだれにでも起こりうる衝動なのではないか、と考えるようになったのです。(もちろん、ほとんどの人はその反動を抑えている)
考えてみれば、衝動というのは幼い子はほぼその性質をもっていて、だからこそ自分の欲望や欲求に忠実でかわいいし、面白い!しかし、成長するにつれ、そういった衝動は徐々に少なくなって社会的規範に沿うように形作られていく。(いい意味でもわるい意味でも)
日本では、タガを外す、羽目を外すことがお祭り以外ではあんまり奨励されてなくて、度を超すとそのコミュニティから外される恐れがある。
だから、日本では特に「表と裏」「建前と本音」の差が大きいのだと思う。
そして、今のように建前重視、見た目重視、コンプライアンスの厳格化が過ぎると人間としての尊厳や、生きる意味も見失ってしまいそう!!そして、こんな世界だと、「タガがはずれてしまう」ことも多くなってしまうのではないだろうか。
ちなみにこの「異邦人」(久保田早紀ではないよ!!)の主人公はそもそもタガが外れるような生活はしてない(つまり自分に忠実)し、自分にウソをついてまで生活していない。他人に、「このときはこうする!」という行動の規範を委ねてないのだ。
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主人公は「今」「この時」を大事にしている。たとえば、
1「女と寝たいなら寝る」(相手がいればね)
2「女から結婚してくれ、といわれたら結婚する」(なんと受け身的な!家事や子育てに参加はしなそうな感じだなあ)
3「仕事は、転勤はいやだ。マイペースに淡々とこなしたい」
4「ママンが死んでもうなだれた様子をしない」
しかし、上記4が、ムルソーの裁判の行方の決定打となってしまった。
つまり、
「彼が暮らす社会では『お芝居をしないと』異邦人として扱われる」から、ほんとうは裁判の時うなだれていたり、母の死を悲しんでいたりしたら死刑を免れていたかもしれないのだ。しかし、主人公はそうはしたくなかったのだ。陪審員や検事、弁護士の予想通りの「被告人」として裁判に臨むのではなく、「なぜか不意にやってしまった」という自分を押し通すのだが、そうすると主人公が「インテリ」であることや「教養がある」と思われていることが逆に裁判で不都合になっていく・・・
彼はその場の「自分の感情」に忠実である。ママンが死んでも「すでに、離れて暮らしていたから」ママンを恋しがって泣いたりはしなかったし、母の死に顔もみようとはしなかった。しかし、母に対する情はもちろんあって、「ママンはよく『人間は全く不幸になることはない』といってたけど、本当にそうだなあ」と独房に入ってつくづく思い返したりする。
わたしはムルソーの突飛な行動に共感はしないけれども、彼の性格の本質である『いま、ここに存在している』という感情と信念を最後まで貫き死刑を迎えたことに、ある意味凄みを感じました。
おわり