午後5:03
ガブリエル=ガルシア=マルケス著
約1ヶ月かけて、昨日8月13日に全て読み終えた。
これは
6代にわたる、
ホセ・アルカディオを主とする、南米マコンド村の家族の物語だ。
大変壮大な物語だが、さいごにはあっけにとられるぐらい、急展開するのが見ごろだと思う。あと、1つ1つのエピソードが面白い。
この本の中での女性はピラル・テルネラも、
ウルスラも150歳くらいまで長生きする、というすごさ。もはや人間ではないですね、、
この物語では男は頼りなく、主に一代目ウルスラ(ホセ・アルカディオの妻)と4代目フェルナンダ(アウレリャノ・セグンドの妻)とという二人の女性がこの家を盛り立てているというか、家のために奮闘している。
本の後半はアルカディオ・セクンドとアウレリャノ・セクンドの双子兄弟が主役だ。
後半の女性の主役は、占い師のピラル・テルネラ(アウレリャノの愛人)とフェルナンダ(アウレリャノ・セグンドの妻)だ。
フェルナンダは、義妹で、美しい小町娘レメディオスが神に召されて昇天した時も「(うちの)シーツは返して!!」などと言ってシーツに未練たらたらで、世俗的でおかしみがあるが、(本人はおおまじめ)
アウレリャノ・セグンドと愛人ピラル・テルネラもおかしい。それは、 愛し合ってイチャイチャすればする(?) ほど羊や鳥や家畜がどんどん増えるから。 そして愛人家は豊かになっていく。
また、ジプシーがマコンドに持ちこんでくるモノが変わってる!姿が消える薬(本当にその人が消えちゃうとか) 望遠鏡だとか磁石だとか、卵を連続何十個も産む 鳥とか、バカみたいに不思議なものを持ってきて、初代アルカディオやらも夢中になるのもおかしい。 ちなみに前半からずっと出てくるメルキアデスは重要デス。
彼の息や気配がある うちは、カビも生えないし、メルキアデスの部屋は綺麗に整えられている。
この部屋にはアルカディオ家族の物語の羊皮紙があり、歴代の男たちは夢中になって、この羊皮紙を解読しようとする。
ホセ・アルカディオ・セクンド、アウレリャノ・セクンドまたその孫の(?)
のアウレリャノ・バビロニアまでもが、このマコンド村の一族の物語に関する羊皮紙を読み解くのに、夢中になっていく。
この物語の特徴をここで述べていきたい。
・まず、ここまでのエピソードでわかるように登場人物に「同じ名前」の人が何回もでてくる。特に、アルカディオ、アウレリャノがね、、いっぱい出てきます。(本の見開きに登場人物がでてくるけど、わかりにくかったら書き込んだり、あらたに自力で相関図を書くとわかりやすいかもしれません。)
・羊皮紙を読む男たちが、くりかえし何回もでてくる
・恋愛のバトルと長くつづく憎しみ
・外国人が持ち込む革新や習慣
・男たちがかかわる戦争
である。
また、この物語で大変なのは、
4年11ヶ月もつづく長雨。
その間に家はかたむき、家畜もどんどん死んでしまい、植物も育たず、家がかびだらけ。
その後の10年の干ばつ。
こんなところでは暮らせないよね、普通。
こんな現実には住めないマコンドに、よく人が住んだもんだ。
〈そして、物語はいよいよクライマックスへ〉
本当に愛したもの同士が結ばれる時に、アルカディオ家の運命は、ウルスラと羊皮紙の予言通りとなる。 何という皮肉!!それこそ砂上の楼閣なのか?
わたしは、
「愛する」ということについて、本当に愛し合ったのはアウレリャノ・セクンドとピラル・テルネラではないかと思った。
しかし、この愛人同士の2人は、いくら仲が良くても正式にな認められない。
アウレリャノ・セクンドにはれっきとした妻フェルナンダがいるからだ。
アウリャレノは、マコンドのお祭りで、美しく高貴な子女であったフェルナンダに一目惚れして結婚する。しかし、アウレリャノは、妻の気位が高く堅苦しいので、つい心安いピラル・テルネラの元へ行ってしまうのだ。
だからやはり、この人たちはそれぞれ孤独なのだ。
<ちょっと面白いセリフ>
後半に、面白いやりとりがある。
お目付け役のフェルナンダがミサに行ったのを見計らって、
年をとって縮んでしまった初代ウルスラ(150才か?)をかついで、
からかおうとする5代アマランタ・ウルスラと6代アウレリャノ。
アマランタ・ウルスラ
「かわいそうな おばあちゃん、年を取りすぎて死んだのね。」
初代ウルスラ「私は生きてるよ。」
アマランタ・ウルスラ「ほらね。 息もしてないわ。」くすくす笑う。
初代ウルスラ「この通り口を聞いてるよ。 」
アウレリャノ「話もしないや。」 「虫みたいに死んじゃったな。」
こうなってはウルスラも悟らざるをえなかった。「おやおや、これが死というものかね。」 そしてとうとうウルスラは亡くなる。
(本文518ページより抜粋)
声が届いてるはずなのに、届いていないんだ、、
無視されているというのは、「死」と同じなのかもしれないなあ。
<そろそろ結論・もしかして「百年の孤独」はアリの生活なのか?>
感想として、後半314ページくらいから面白くなる。ん?よく考えたらフェルナンダの登場からが面白いのかも。もう、読み終わるのがもったいない気がしてくる。
1.そして、だんだんこれが人間の営みではないような気がしてくる。これってあのイソップの「アリとキリギリス」の「アリ」の生活なのではないか?
youtomejiteki1000sai.hatenadiary.com
アリならば、長雨が続いても地中深い穴倉でも生活できるし、虫の死骸や草なんかを食べて暮らしていける。働きアリは全体の2割しかいないというから、それも納得できる。物語の男たちは怠けているものもいれば、羊皮紙に夢中になっているものもいるからなあ。お風呂ばっかりはいってる女子もいるし、外国で羽を伸ばしてる子どももいるし。
2.愛するということの難しさ
異性との愛には、相性、タイミング、結婚に適した年齢も大事だし、一方的でない双方向的な愛が理想的だ。あとは親子の愛、この本に出てくるような「倫理的にどうか?」というの愛もある。
そして、
私はフェルナンダみたいに気丈には生きられない、とつくづく思う。
後半はシリアスな人間関係、戦争などの描写になる。フェルナンダは自分の信念を持って家を立て直し、家をととのえ、うちの経済事情はきびしいのに、お金を工面して子どもたちを外国に留学させる。働かない 旦那の代わりにはたらきづくめ、それなのに誰も「フェルナンダ、お早う。昨夜はよく眠れたか?」と声をかけてくれるものもいない。(本文489ページより抜粋)
「おーーい!フェルナンダ~~もう、そんなにがんばらなくてもいいよう!」と声をかけたくなる。
3.最後にこの本では、
愛情や孤独については書いてあるが、
「友情」についてはほとんど書いてない。
(もし書いてたらすみません。私の目が節穴だったか、読むのにつかれて飛ばしてたかですね)
友だちって人生において、人生の節目にとって、大事なものですよね。
だから、この物語が閉鎖的で穴ぐらの生き物たち(アリ?)のように感じてしまうのかも。
まあ、みんながこの小さい村以外に友だちやら親友がいたら、みんながさっさとマコンドを去って明るくにぎやかに過ごしてて物語が成り立ってなかったかも、ですけど。
<final わたしなりの結論>
これが人生なのか? なぜこの本がコロンビアで熱狂的に迎えられたのか?
50年前にはわたしはわからなかったかも知れない。(まだ産まれたてだったからね、、)
実は今の世界や日本も、この猛烈な熱波にやられ、オリンピックという祭りも終わって現実と向き合わねばならない。
こんなに暑い日が60日も90日も続くなら規模は違えど、 マコンドの「雨の5年間」「干ばつの10年」に匹敵するのではないか? 我々は我慢するだけか? どこかへ引っ越すか?それともフェルナンダのように現状を維持していくのか? それとも結局は・・・
ちなみに南米でこの本がうけて大ベストセラーになったというが、
こういった変わった話、不思議な話、珍しい話、お尻に豚のしっぽが生える話などはびっくりもするけど、
日本だって歴史が古いんだから、やはり怖い話、恐ろしい話、不思議な話は各地にいっぱいある。
柳田国男みたいなカッパの話や ツチノコ騒ぎやら、UFOや宇宙人や、水木しげるのゲゲゲの鬼太郎みたいな妖怪話もあるから、
ある意味、これは世界で普遍的なのかもしれない。
恋愛や結婚や浮気でドロドロ関係は多いし、理屈に合ってないし、変わってることがおきてもみんなとがめない、けれどもこういう混沌とした本は本当に
面白い!!ので、みなさまもぜひ一口噛んでみてください。
これを読むと、
私たちは壮大な宇宙のウソの中で暮らしてるのかも知れないなあ、なんて不思議なきもちになるかもしれません。
P.S.
どうやら、井上ひさしの
「吉里吉里人」という本も、この影響を大いに受けたらしいです。
あの本も実家にあったけど長すぎてながすぎて、、中学生くらいではちょっと歯が立ちませんでした!
あと、友田とんという作者は、「『百年の孤独』を代わりに読む」という、なんて品のいい解説書を書いてくれたんでしょう。実際の「百年の孤独」の言葉や文体は、だいぶstrongでカオスでヘビィでした。
↓こちらは7月に読んだ、友田とん氏の本に関するブログです。
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でも、彼の本で予習してたので「百年の孤独」を、読了したので感謝しかありません!
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